書名 | 単著・共著 | 年月 | 発行所、発表雑誌 (及び巻・号数)等の名称 | 編者・著者(共著の場合のみ) | 該当ページ数 | 概要 |
田辺元関係研究文献目録 1 | 単著 | 2008年12月 | 求真会編『求真』第15号 | | 101-106 | 田辺元は同時代の西田幾多郎の哲学への批判を通して自身の思想を練り上げ、その後の日本哲学に大きな影響を与えた。彼の哲学についての研究も多数あるが、研究文献の目録は1990年までのものしかなかったため、田辺元の哲学について日本語文献・欧文文献を網羅した目録を作成した。 |
中期西田哲学における質料概念の意義 | 単著 | 2009年10月 | 『日本哲学史研究』第6号 | | 78-108 | 中期の西田哲学の課題は「思想の論理化」であり、そのために西田は「主語となって述語とならない」というアリストテレスの基体概念を援用する。従来の西田研究において、このアリストテレスの基体は個物として理解されてきた。しかし西田は、アリストテレスの基体をプラトンの受容者と引き合わせたプロティノスの質料概念を積極的に取り込んでいた。本稿は西田の基体概念におけるプロティノスの影響を明らかにするとともに、これが「無の場所」の思想へとつながったことを指摘した。 |
田辺元関係研究文献目録2 | 単著 | 2009年12月 | 求真会編『求真』第16号 | | 79-86 | 目録1の続きである。田辺哲学に関する独立した文献だけでなく、他の研究対象を主テーマとする単行本の章や節において田辺哲学について論じているものも採録し、該当の頁数も示している。 |
『働くものから見るものへ』における言語の問題 | 単著 | 2011年07月 | 西田哲学会編『西田哲学会年報』第8号 | | 138-153 | 西田幾多郎は中期の著作『働くものから見るものへ』において、言語を「思惟の成立条件」「思想の身体」と評価する一方で、「単なる符号にすぎないもの」とも言う。このようなアンビバレントな言語観を、この時期の西田が取り組んでいた「思想の論理化」の問題に引き寄せて考察した。中期西田哲学の「場所論」を言語哲学として読む試みである。 |
思慮分別はなぜ純粋経験ではないのか | 単著 | 2014年12月 | 『日本哲学史研究』第11号 | | 126-155 | 『善の研究』における思惟や判断(思慮分別)の扱いは、西田研究における大きな問題である。先行研究においては、思慮分別は「主客未分の純粋経験」ではないものとして説明される傾向にある。本稿においては、この思慮分別を非純粋経験とみなす解釈の典型として上田閑照の論述を取り上げた。上田の解釈における純粋経験と言葉との関係を批判的に検討し問題点を指摘した上で、思慮分別を主客未分の純粋経験と見なす解釈を提示するとともに、それによって純粋経験から自覚へとという西田の思想の変遷も理解しやすくなることを主張した。 |
仏教福祉は人権概念の基礎を持つか | 単著 | 2015年04月 | 『比較文化研究』第116号 | | 79-91 | 17世紀から18世紀にかけて徐々に形成された人権思想は、社会福祉の礎である。仏教社会福祉の研究においても、近代西洋思想に由来する人権概念を前提とすることが多い。しかし、仏教は西洋の人権思想と共通するものなのだろうか。本稿は、ジョン・ロックの所有論を中心に、西洋近代思想の人権概念を分析し、仏教の人間観との違いを明らかにした。古代ギリシアや中世ヨーロッパには、φύσις(フュシス)や自然法という形で人権に近い思想が存在したが、フーゴー・グロティウスやトマス・ホッブズといった近代自然法の思想家が活躍した時代には、伝統的な自然の意味は完全に変化していた。中でも、古典的な自由主義者であるジョン・ロックは、自然の意味を神から人間に近いところに引き寄せ、自己所有論によって人権を正当化した。一方、仏教はそのような自己所有は肯定せず、むしろ自己中心的な考えから遠ざかるべきだと説く。 |
ケアの贈与と関係の非対称性 | 単著 | 2017年06月 | 『現代QOL研究』第3号 | | 21-28 | ケアは、なんらかのリソースを持った人から、支援を必要としている人に対して行われる。このような支援と被支援の関係は、贈与と受贈の関係に比することができる。通常支援する側のまなざしは、QOLの向上といった目的を達するためにいかに被支援者に対して効果的な働きかけを行うかということに向けられる。しかし、ケアという働きかけそのものの引き起こす関係性の変化にも注意を払う必要がある。ケアを贈与と捉えるとき、ケアする人の働きかけではなく、ケアを通して互いに関わる人どうしの関係のあり方に焦点が絞られる。この小論では、ケアを贈与と捉える視点から、ケアする人とケアされる人との関係について考察を行った。 |
死と看取りの現場における「慈悲」の力 : 浄土真宗におけるビハーラ活動を踏まえて | 単著 | 2018年08月 | 『サンガジャパン』第30号 | | 178-185 | ビハーラとはサンスクリット語で「僧院」や「休息の場所」を意味し、日本においては1980年代から仏教を背景にしたターミナルケア活動やその施設を指す語として用いられる。本稿では日本におけるビハーラ活動を概説したうえで、寺院が主体となって運営されている認知症対応型共同生活介護(グループホーム)におけるケアのあり方を紹介した。帰宅願望の強い入居者との関わりにおいて、本人に指示やアドバイスをするスタッフとしてではなく「分からなさを共有し悩む人」という立ち位置で接することにより入居者からの信頼が得られた事例や、看取りの場において今まさに息を引き取りつつある入居者に対する「大丈夫」という声かけが、共に苦しみ共に死んでいく者としてのみ可能であると自覚された事例を挙げ、ビハーラ活動における共感・共苦の重要性を指摘した。 |
仏教サンガにおけるケアの持続性 ―摩訶僧祇律を中心に― | 単著 | 2023年03月 | 『宗教研究』第96巻別冊 | | | 病や老いへのケアは、ケアを担う者にとっては大きな負担である。負担が大きすぎたり一箇所に集中すると、ケアは破綻する。現代日本においても介護疲れを主な原因とする殺人や虐待の事件が起きているが、比丘(修行者)たちのコミュニティであった仏教サンガにおいても同様の事態が生じていた。日本では介護保険法等によって「ケアの社会化」が図られているが、仏教サンガにおいてはどうっだったのか。本稿は『摩訶僧祇律』から仏教サンガにおいてもケアの負担の問題が生じていたことを指摘し、ケアの持続性を確保するためどのような対応がとられていたのか、その仕組みの一端を明らかにした。 |
宗教的儀礼が認知症高齢者の心のケアに果たす役割についての考察 | 単著 | 2023年08月 | 『応用老年学』第 17 巻第1号 | | 62-69 | 認知症患者は自信の喪失や不安感など精神的に不安定な状態におかれやすいが、言語コミュニケーションが充分にとれない場合、認知症患者の心のケアには困難が伴う。仏壇への礼拝など簡素な形で行われる伝統的な宗教儀礼は、認知症になってからも続けられることの多い慣習である。本論は、文献検討によって儀礼の特質を挙げ、認知症高齢者の心のケアに宗教的・伝統的な儀礼が果たす役割について考察した。結果として次の点を指摘しうる。儀礼は、時間的にも空間的にも、また価値秩序においても、日常生活から分離された聖なる場において行われる。また儀礼は、豊かな身体感覚や感情を参加者たちが共有する実践である。こうした聖俗の区別と身体・感情経験の共有という特質により、儀礼は認知症患者にとって心の拠り所となる可能性がある。 |
純粋経験としての反省 | 単著 | 2024年03月 | 『相愛大学研究論集』40号 | | | 西田哲学において「自覚」とは、直観と反省との区別と同一性という矛盾的な関係によって進展していく活動である。この直観と反省との関係は、前著『善の研究』においては「純粋経験と反省的思惟との関係」である。本論文は、『自覚に於ける直観と反省』で直観と反省とが「直に同一である」とされていたのと同様に、『善の研究』においても純粋経験と反省的思惟とを「直に同一である」と見なしうることを示す。そのために、『善の研究』本文と研究ノートにおける西田のウィリアム・ジェイムズとジョン・ロックの思想受容の仕方を検討する。この作業によって『善の研究』と『自覚に於ける直観と反省』とのあいだの新たな脈絡を見出すとともに、「純粋経験によってすべてを説明」するという西田の本来の意図に適う純粋経験理解を得ることが可能になる。
追記:本論文は『相愛大学研究論集』40号に投稿し、2023/12/08に修正付きでアクセプトされた。現時点(2024/06/25)で未発行であるため暫時的に発行月を例年の論集の発行月に合わせて3月とする。当号が発行され次第、修正する。 |